恐怖映画に見る日常性と非日常性の隣接と乖離


はじめに
 我々は恐怖という心理を日常生活において体験することができる。そしてまた、恐怖映画の観客として映画によって恐怖を体験することもできる。その設定において恐怖映画が成立するために必要な条件とは何かを明らかにしてみたい。そのためにここでは主に、ホラー・コメディと称される映画『キラートマト』(“Attack Of The Killer Tomatoes” ジョン・デ・ベロ監督1978年)を題材としてとりあげる。この映画は恐怖映画の設定を利用しつつ笑わせるというコメディ色の強い作品である。恐怖映画の設定が崩れ、笑いにつながる感情へ転じさせてしまう要素に焦点を当て、その要因について考察したい。このようなホラーとコメディの両ジャンルをまたがる作品を用いることにより、「笑い」の立場から「恐怖」を逆照射することができ、その本質が明らかになるものと考えるからである。なお、今回の分析において、カメラワークや音響効果、などの技術的側面は考察の対象から排除することにする。

日常生活における恐怖と映画における恐怖
我々は日常生活において様々な恐怖体験をする。その要因も々であるが、そこでは、恐怖が自分事とし様て体験されるということが重要である(図1)。一方、映画内で出来事というのは、その本質において他人の事である。なぜなら映画は、写真と同様の写実的性質を持つゆえに現実を描いているものと錯覚しがちがであるが、フレームによって切り取られた「フレーム内での現は、監督の意志が介入した恣意的な状況実」だからだ。しかし、映画内の出来事が全くの他人事のままでるならば、観客はみな、状況の傍観者といあうことになってしまう(図2)。スクリーン上での惨劇を観客がい」と感じるためには、他人事としてではな「怖く自分事として経験される必要があり、そのためには観客がかを通してスクリーン内の状況に入り込ま何ねばならない(図3)。我々が日常生活において経験可能なわい夢」と同様の体験をする必要があると「こいってよいだろう。「こわい夢」は自分が当事者であるゆえに怖を感じると言えるからだ。そして、映画に恐おいてはこの「他人事が自分事になる」ことが鍵を握っているめ、感受する程度においてあまりにも個人た差がある内容は映画化しにくいことになる。例えば、男が子供誘拐しては惨殺する恐怖映画を観ても、子を供を持たない者にとってあまり現実味がないため怖くなくないあろう。恐怖を引き起こすものとして個人差でが極小値となるのはやはり「死」であろう。なぜなら、誰もが間である限り死ぬ可能性があり(当事者の人可能性)、一度として「死」を経験することができない(未知)らである。だが、このような普遍性を持つか「死」も、恐怖映画の題材としては最も使いやすい条件のひとつ過ぎない。条件さえそろえば、「死」を扱にわない恐怖映画をつくることもできるからである。『激突!』(ステーブン・スピルバーグ監督1984年)がそィうであろう。『激突!』は、アメリカの郊外を走る乗用車を、追越をたと言う理由だけで巨大なディーゼル車しが異様なまでに追跡する。追跡してくる運転手の顔が見えないめ、巨大ディーゼル車が意志を持って迫たってくるように思えるのが最も恐ろしいのだが、この映画では誰人として死ぬことはない。ラストのシーン一で巨大ディーゼル車が崖から落ちることで、乗用車の運転手は怖から解放されるのだが、ディーゼル車恐の運転手が死んだのかどうかは定かではない。そこには、メタフーとしての擬人化されたディーゼル車のァ死があるだけである。また、「死」は恐怖心を引き起こすと共に、つの結末を意味し、悲惨な状況から解一放させるという機能があることに注目すれば、解放されないことのがより怖いと感じられることもありうる、方と私は考えている。

映画における恐怖の対象の歴史的変遷(リアリティの問題として)
 ここで恐怖映画のこれまでの歴史をたどることも有効となろう。ハリウッドに恐怖映画が現れた当初は、フランケンシュタイン、吸血鬼、ミイラ男、狼男などの、日常からかけ離れたものを恐怖の対象に設定することが主流であった。そのような日常とは無縁の対象が、恐怖の始動装置たりえたわけである(存在の異常)。それが、『ジキル博士とハイド氏』(ルーベン・マムリーアン監督1932年)によって、恐怖の対象は人間の精神内部に見出されることになり、60年代になると『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック監督1960年)によってこのことは決定的になる。
 息子の母親殺しに始まる人間の狂気を描いた『サイコ』では、郊外のモーテルというアメリカ人の誰もが日常見知っている風景の中で惨劇が起こる。ここで我々は日常の外部(人間が作り出したもの、得体の知れないものcf.怪物、宇宙人、怨霊)にではなく、日常の内部(隣人、家族、自己)に恐怖を見出すことになるのである(行動の異常)。
 恐怖映画の対象の設定として、日常の内部において異常な行動をする対象の方が、我々にとって、よりリアリティのあるものとして理解が可能になったと言えるだろう。日常の内部にある要素の一部を非日常にすることによってリアルさが増すのであり、あまりにも非日常な設定はリアリティを失う結果となり、もはや自分事にはなりえない(図4)。仮に、映画内で主人公が未知の惑星に突然その身を置かれ、何かに襲われたとしてもリアルなものに感じられないのは当然であろう。それよりも学校や家庭などで惨劇が起こるほうが我々にとってはるかに恐怖だといえないだろうか。
 また、恐怖映画が歴史を持つことで、公開された当時には「得体の知れないもの」であったはずのドラキュラやフランケンシュタインが既知の対象となり、「お決まりのプロット」として機能することも注目に値する。日常の外部に存在する恐怖が「お決まり」として克服されてしまうことで観客はメタ的視点に立つことになり、スクリーン内の出来事と距離が生じてしまう。この恐怖映画の一回性のため、『フランケンシュタイン』(ケネス・ブラナー監督1995年)では、盲目のお爺さんに心を開こうとする怪物をその家族や街の人々が迫害するシーンが採用されるなどして可哀想なフランケン像を描いたり、『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』(ニール・ジョーダン監督1994年)では、自らの生存のために避けられない殺人に対して、罪の意識を捨てきれない吸血鬼に人間らしさを感じさせられる感動ドラマの仕上がりになっていたりもする。さらに、中国産の恐怖映画であったキョンシーも『來來キョンシーズ〜がんばれ!テンテンの巻〜』(王知生監督1988年)になると子供のキョンシー(かわいい)が登場することでコメディ色が強くなってしまっている。このように恐怖映画は使い捨てとして消費され、シリーズ化されたもののうちその大半が、もはや観客に恐怖心理を抱かせることができない宿命にあると言えそうだ。  

非日常性の創出(恐怖映画成立の第一条件)とその維持(第二条件)
以上の考察より、恐怖映画においては恐怖の加害者に非日常性の創出が必要であると言えるだろう(第一条件)。先に見たように、恐怖映画が誕生した当初は、非日常な存在をその対象にしさえすればよかった。そして、『サイコ』以降、日常の内部で異常な行動をする対象が選ばれるようになった。だが、歴史を持つことで、恐怖映画は観客の反復と理解のプロセスを通じて映画としての日常に回収されていってしまう。恐怖映画として成立するためには、日常に回収されないようにすることで不安定な状況を維持することが必要なのである(第二条件)(図5)。歴史が生み出した作品の一つとして『殺人魚フライングキラー』(ジェイムズ・キャメロン監督1981年)が挙げられる。魚を恐怖の対象に設定した映画では舞台が海に限定されてしまっていたが、トビウオとピラニアを交配することで誕生したキラーフィッシュは陸にいる人間まで襲うのである。海にいさえしなければ命は保証されたのに、この映画では陸にいても安心できないのである。このように、観客の反復と理解のプロセスの攻撃に対して、新しさを追求することで不安定化させ、恐怖映画として非日常性を維持する必要があるのだ。このことは後に詳しく考察したい。
 

『キラートマト』と恐怖映画『鳥』との比較
 『キラートマト』は、次のようなテロップから幕があける。
  In 1963, Alfred Hitchcock made a motion picture entitled “The Birds”, a film which depicted a savage attack upon human beings by flocks of the winged creatures.
 People laughed.
 In the fall of 1975, 7 million black birds invaded the town of Hopkinsville, Kentucky, resisting the best efforts of mankind to dislodge them.
 No one is laughing now.   
このテロップは、『キラートマト』が『鳥』(アルフレッド・ヒッチコック監督1962年)の設定を下敷き(パロディ)にして製作されたことを示している。
 ヒッチコックの『鳥』は、我々人間を襲うはずのない「鳥」が、人間に復讐するでもなく、つまり理由もなく、人間を襲うという設定の恐怖映画である。女性の主人公がボートをこいで岸にたどり着こうとするまさにその瞬間、一羽のカモメが何の前触れもなく彼女の頭部に攻撃を加える。この一羽のカモメについて、ドゥルーズは、『シネマ』の中で次のように言っている。   
『鳥』において、女性の主人公を攻撃する最初のカモメは意味のまとまりからはみ出した記号(「脱徴候」)となっており、その理由は、そのカモメが、カモメという種族や人間そして自然とその一羽のカモメを結びつけている慣習的なグループを激しく逸脱しているからである。
                               (ドゥルーズ『シネマ1』 第12章P204)   
「脱徴候」としてのカモメは、自然な関係の系列を逸脱することによって我々に異常を知らせる。我々の身のまわりにいる動植物を恐怖の対象(加害者)として設定した映画は数多くあるが、それらの多くは、人間がつくりだしたものであったり、人間が迫害した結果、復讐をされるというメッセージ性の強いものである。『鳥』がそれらの作品と一線を画するのは、鳥が人を襲うという異常事態に理由が欠如しているゆえに、観ている我々が何らメッセージを受け取ることができないことにある。しかも、襲ってくる鳥に対して人間はにげまどうしかなすすべがない、という状態のままこの映画は幕を閉じる。鳥がなぜ人を襲うのか、その危機にどう対処すべきかがわからないのである。ここで観る側の心理は、イーフー・トゥアンの恐怖に対する分析と重ね合わせることができる。   
では恐怖とはいったい何だろう?それは警戒心と不安という、はっきり区別されるふたつの心理的緊張がからみあった感情だ。警戒心は環境にふだんとちがう出来事が発生することで喚起される。…(中略)…一方、不安とは漠然と拡散した恐怖感であり、その前提になるのは予測する能力だ。一般的に動物は自分を支えてくれる本拠地のなじみ深い風景を離れ、不慣れな環境に置かれると不安を感じるものだ。不安とは何か危険が起こりそうな予感といってもいいが、その危険の原因が何なのかはっきりわからない。これだと特定できる脅威が周囲に見あたらないため、確固とした対応をとろうにもとれないのだ。
                                 (イーフー・トゥアン『恐怖の博物誌』 P15)   『鳥』と比較してみると、『キラートマト』における、人間が日常食している「トマト」が理由もなく人間を襲う、という設定もまた、トマトは植物であり(動かない)、我々はそれを食べる、という常識(日常)を揺るがすことになり、「警戒心」を持つことになる。そして、人間がトマトに食べられることで、自然界のヒエラルキーの転倒(非日常)がひき起こされてしまう。人間を襲うトマトは、その行動が異常なため自然な関係の系列を逸脱しており、そのせいで人間は未知で不慣れな環境(人類の生存の危機)に置かれ、心理状態が「不安」になる。こうして作り出された状況は、充分に我々の心理に恐怖映画として機能しうる(精神的恐怖)可能性を持っているのだ。
 

恐怖映画成立の条件を支える三つの要素
 この、恐怖を呼び起こす設定についてもう少し詳しく考察してみたい。その設定において、恐怖映画を成立させている条件をもう少し掘り下げてみる。
 私はここで三つの要素が浮かび上がってくるのを発見する。つまり、A)恐怖の加害者B)その加害者が登場するシチュエーション(舞台)C)恐怖の被害者、である。この要素の組み合わせパターンが条件になる、と私は考えている。
 まず、A)恐怖の加害者について考えてみる。
 恐怖映画の中で、恐怖の加害者に設定されてきたものは、ミイラ男、狼男、ドラキュラ、フランケンシュタイン、幽霊、鳥、魚、植物、動き出す死体(ゾンビ)、狂人、人形などである。これらをいま、存在レベルでの「正常」と「異常」、規範的行動レベルでの「正常」と「異常」にわけてみると、a)「存在の正常」かつ「行動の正常」 b)「存在の異常」かつ「行動の正常」 c)「存在の正常」かつ「行動の異常」 d)「存在の異常」かつ「行動の異常」 という四つのカテゴリーができあがることになる(表1)。この図では、現実の世界における鳥や魚はa)に属しており、人を襲う鳥や魚はc)に属している。恐怖映画の加害者はb)(存在の異常)とc)(行動の異常)にカテゴライズされていることがわかる。リアリティを持たせるために、「存在」と「行動」のどちらか一方だけが異常でなくてはならない。恐怖映画の歴史の中でふれたb)のフランケンシュタインやミイラ男、ドラキュラ、狼男などは、反復と理解のプロセスの中で日常化し、虚構レベルでのa)に移行してしまい、恐怖を引き起こさなくなってしまっていると説明できよう(表2)。一方、我々の身の回りにあり、動かない人形はa)に属し、夜中に髪が伸びたり泣き出したりする人形や人殺しをする人形はc)に属していることから恐怖の対象(加害者)になりうることが確認できる。では、トマトはどうだろうか。トマトは、現実の世界では、a)に属するが、人を襲うトマトは、c)に属することを考えると、恐怖の加害者としての要素となり得ることになる。
 次に、B)恐怖の加害者が登場するシチュエーションについて考察してみよう。
 恐怖の舞台には、大雪の中の一軒家、海(船)、宇宙船、古城、郊外、森林、地下室、病院、刑務所、トイレ、風呂、墓地、タクシーの中、夢の中、などの場所が選ばれる。これらは、日常的ではあっても他人と共有しない場所、閉ざされた空間、人気のない場所、死と隣あわせになっている場所、のいずれかであることがわかる。これらはいずれの場所であっても、一人でその場所に身を置くとなると恐怖心をかき立てる装置となる。その理由は、これらいずれの場所も、別世界(非日常)への入り口として機能する可能性を含んでいるからだ。つまり、それらの場所がいわば日常と非日常の「あいだ」として機能しうるからである(図6(図4が関連))。我々が生きる前提としている日常とは別の、非日常の世界の扉を開けてしまうのかもしれない。そのことで我々のいる日常に非日常が侵入してくるかもしれない。恐怖のシチュエーションが「こちら側」と「向こう側」として乖離してしまわないようにする工夫が必要なのだ。そのような場所は、イーフー・トゥアンが言うように、われわれにとって自分の身に何が起こるのかが予想できない点で恐怖心を掻き立てるのである。
 さらに、ここで、恐怖の加害者との距離が問題になる(図7)。我々は、次第に自分に近づいてくるものに恐怖を感じるのである。恐怖映画においては、恐怖の加害者が、恐怖の被害者に徐々に接近する緊迫感が必要である。我々が見守る人物が、非日常に飲み込まれるのではないか、という不安の高まりが必要なのである。不安の高まりの結末として、いきなり恐怖の加害者がそばにあらわれ、「驚き」を感じることになる。「驚き」は恐怖を引き起こすかもしれない前感情とでも言うべきものである。前感情を一次的感情と言い換えるならば、この一次的感情としての「驚き」が、当事者の心理状態(安定と不安定)や、状況に対する理解(理解と不理解)によって「常識だと感じられる」、「恐怖心をかきたてられる」、「異様だと感じる」、「おかしみとして感じられる」などの二次的感情に変わるのである(図3)。ちなみに、笑ってしまうのと笑いの意味を理解するのとでは全く別物である。ジョークの意味を考えても面白くないし、落語の解説を聞いても笑えないからである。ビックリすることが「襲われてしまう」という恐怖心に移行する可能性を持っているのだ。 
 最後に、C)恐怖の被害者について考えてみる。
 恐怖映画には、恐怖の被害者の存在が不可欠である。なぜなら、我々が恐怖映画を観て恐怖するためには、スクリーン内の出来事への感情移入が必要であるからだ。他人事を自分事に変える最も重要な要素として、これを恐怖映画成立の第三条件と考えたい。すでに見たように、人が恐怖を感じるという事態は、常に可能性としてしか現れない(実現の可能性)、という事が重要である。つまり、自分にも起こり得たかもしれない(過去)、または、自分にも起こり得るかもしれない(未来)、というように感じられなければ(当事者の可能性)、そもそも恐怖なんて感じはしないからだ。スクリーンの中で恐怖させられる人物に自分の姿を重ね合わせることで(自分事)、観る者は恐怖を感じるのだ。このことは次のような例を考えてみるとわかりやすい。ゴジラが人を襲う映画(本多猪四郎監督1954年)は恐怖映画であるが、ゴジラがキングギドラと戦う映画(大森一樹監督1980年)はアクション映画ではないか。(『ゴジラvsキングギドラ』における二匹の怪獣が、人を襲うことを目的としていないために、我々はどちらが勝つのかを傍観しているだけ=距離が生じてしまっているからである。)また、『キラーコンドーム』(マルティン・ヴァルツ監督1996年)では、主人公であるマカロニ刑事が同性愛者である、という設定であるために、我々の大半が感情移入することができなくなってしまう。なぜなら「異性を恋愛対象にすること」と、「同性を恋愛対象にすること」との間に距離が生じてしまっているからだ。女性の観客にはコメディとしてしか受け取れないだろう。ヘテロの男性には少し怖いと感じられるかもしれない。恐怖におびえるのはホモの男性であろう。また、恐怖させられる人物は、そのこわばった表情によって、我々の恐怖心をさらに増幅させることからも重要な役割を果たしているといえよう。
 これらが恐怖映画の設定の基本になる三要素である。
 

『キラートマト』と恐怖映画成立の三条件
 『キラートマト』がなぜ恐怖映画ではなくなるのか、つまり、観る者に恐怖心を抱かせ得ないのかは、上で述べた三条件に照らして考察すればよい。
 まず、人を襲うトマトが恐怖の加害者として成立していることはすでに述べたとおりである。では、この恐怖の加害者が登場するシチュエーションはどうか。たしかに、殺人トマトが台所(人気のない場所)で一人でいる女性を襲ったり、海(閉ざされた空間)でヴァカンスを楽しむ女性を襲う(『ジョーズ』(スティーブン・スピルバーグ監督1975年)のパロディ)シーンは、場所としての条件を満たしてはいる。しかし、観客に恐怖の場面を想像させる装置となる、恐怖させるものが、我々が感情移入している人物に徐々に接近する緊迫感が欠如している。距離において問題が生じているのだ。上でみたように、我々は次第に自分に近づいてくるものに恐怖を感じるのである。我々が見守る人物が、非日常に飲み込まれるのではないか、という不安の高まりが必要なのであった。殺人トマトが接近してくる緊迫感が欠如しているゆえに、条件を満たしているとはいえない。では、恐怖の被害者についてはどうだろうか。確かに、殺人トマトに襲われる人物は断末魔の叫びとともに恐怖の表情を伴ってはいるが、その人物に我々は感情移入することはできない。その理由は、トマトが人を襲うという非日常的な状況を我々が受け入れるための要素である、リアリティが欠如しているからだ。つまり、一体どのようにしてトマトは人を襲うのか、がこの映画において視覚化されないがために、事態を自分にも起こりうる可能性をもつものとして受け入れることができない(実現の不可能性)のである。ただ、実際に人が襲われて流血するシーンがなくとも、観る者が想像できるものであれば、流血のスペクタクルを視覚化する必要がないケースもある(『シャイニング』スタンリー・キューブリック監督1980年)。ただし、我々の想像力が、人が襲われるときのおぞましさとリンクされるための要素(例えば、凶器など)はやはり必要であるが。(『シャイニング』では、少年の脳裏に浮かんだ滝のような赤色の洪水が、血のメタファーとして提示される。また、狂人が斧をもって、妻と自分の息子である少年を追いまわすシーンが観る者に最も恐怖を与える。)
 このように『キラートマト』は、殺人トマトがA)の恐怖の加害者としての要素であるものの、B)の恐怖の加害者が登場するシチュエーションにおける接近する緊迫感と、C)の恐怖の被害者における実現の可能性の条件を満たしておらず、恐怖映画としての機能を失うことになる。そして、この映画において随所に見られるパロディ的要素についても触れておこう。「驚き」を前感情として区別したうえで表2を利用して考えると、パロディは心理レベルの安定の理解可能と不可能の境界線あたりに存在するものと考えられる。パロディは笑いに関連した副産物であり、内容が理解できれば「〜のことか」というメタ的視点に立つことを強いるのである。「安心」と「理解可能」に回収されると言えよう。その結果、観る側の我々とスクリーン内の出来事との間に距離が生じてしまうのである。

 滑稽は、極めて平静な、極めて取り乱さない精神の表面に落ちてくるという条件においてでなければ、その揺り動かす効果を生み出しえないもののようである。われ関せずがその本来の環境である。(ベルクソン『笑い』P14)
 
 このような距離が生じると、ベルクソンが言うように、「われ関せず」という視点に立つことによって、我々は恐怖に身構える必要がなくなるので、余裕を持って(安心して)眺められるようになる。そのせいで、スクリーン中の出来事はすべて滑稽に転じてしまうのだ。こうなると、トマトの果汁がいくら血液のメタファー(例えば、主題歌の背景や、台所で主婦が襲われるシーンを思い出してもらうとよい)として表現されていても、そこに恐怖は浮かび上がってこない。恐怖を呼び起こす設定がすでに崩壊してしまっているからである。一つの要素が欠けることによって、全体のバランスが失われ、見るものに滑稽にうつってしまう。最後に、このことを例証してくれるベルクソンの記述を引用しておく。

 試みに、ほんのひととき、ひとのいうことなすことに全く心を使うようにし、想像のうちで、行為している人びとと一緒になって行為し、感じている人々と一緒になって感じてみたまえ、つまり諸君の共感にその最も広いひろがりを与えてみたまえ。魔法の杖にひとふりやられたかのように、諸君はいとも軽いものでも重くなり、そしてすべてのものに厳粛な色がつくのを見るであろう。次に、引き離れてみたまえ、われ関せずの見物人となって生に臨んでみたまえ。多くのドラマは喜劇に変ずるであろう。ダンスしている人びとが我々にすぐさま馬鹿らしく見えるためには、ダンスが行われているサロンの中で、音楽の音に我々の耳を塞ぎさえすれば十分である。(ベルクソン『笑い』P14〜P15)






















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