概念を逸脱する作品 
ハンス・ベルメールの人形たち



 シュルレアリスト・グループの活動に深く関わった一人として知られるハンス・ベルメールの作品に『人形』と題されたものがある。ベルメールは、球体関節の採用により、自由に脚や胴体が動くという新機軸の人形を完成させるが、この人形はふつうに顔と両手両脚を備えたものではなく、球体のお腹を基点として両側に二組の脚が生えていたり、魅惑的な顔と球体の乳房を備えながら両腕を欠いているものなど、自然な人体の構造を超越した変幻自在な組み合わせを許すものであった。ベルメールはこの人形を室内の寝台の上、暗い螺旋階段、扉の前、椅子、テーブル・クロス、戸外の木、枝の先など、様々な意表を突く背景に設置し、人形とベルメール、人形と観者との間の無言劇が展開されるような写真を多数撮影した。作品は『人形』と題されているものの、観る者に奇妙な感慨を抱かせる。それは何故だろうか。

 まず第一に、写真に収められた人形は、その多くが裸体であり、着衣が許されているもののストッキングや靴下に靴が履かされているといったものとなっていることが挙げられる。人形美学研究者の多くが指摘するように、人形とは「衣装形成の実現」ではなかったか。増渕宗一は『人形と情念』の中で、人形を次のように定義している。

            
 人形の存在論的位格への人間の愛惜の情は、人形における衣装的形成を契機にして生じてくるように私には思われる。…(中略)…「衣装的形成」とは、単に衣装による美的形成だけを指すのではない。それは、目鼻口元の化粧作りや髪型作り、そしてポーズの決定までを含めた装いの統合としての衣装的形成のことを意味している。…(中略)…人形の本質を規定する積極的契機は「衣装的形成」であるが、消極的契機は「裸身の回避」なのである。
                                          (増渕宗一『人形と情念』)                                                             
 増渕は人形を彫像との比較においてこのように述べるが、この定義をベルメールの人形にそのまま当てはめるのは少し困難であるように思われる。ベルメールの人形は衣装をまとうどころか、衣装を剥ぎ取られてしまっているからだ。どちらかといえば「裸身」に近い。だが、裸身に近いからといってこの作品を「彫像である」と理解するのもそぐわない気がする。『人形』は、衣装を剥ぎ取られたうえに、「肉体」すらもゆがめられてしまっているからである。このことが観る者に奇妙な感慨を与える理由の二つ目であろう。作品自体からは、「人形」でも「彫像」でもあるか、もしくはそのどちらでもない、としか判断できそうにない。べルメールは何を表現したのか、に視点を移せば何かヒントが得られるのかもしれない。彼の意図を探る重要な手がかりとなる記述を引用してみる。   

 割り算を掛け算に対立させ、<細部>の問題に戻ろう。切り離されて認識され、切り離されて記憶にとどめられた一本の足が、独立した生を意気揚々と生きだすのは言うまでもなく簡単なことだ。そのときその脚は存在方法を正当化する幻覚をシンメトリーから引き出すためだけなら、いくらでも二重になることもできるし、また、頭にくっつこうが、頭足類のように、開かれた胸に乗っかって、口から踵にまで達する二重の二又のアーチである背中の部分の太腿をこわばらせようがいっこうにさしつかえない。
 自身、不可能な形式に苦しみながら、人を傷つけるイヴというこの統合から無傷で脱出できる者はいない。心臓のない娘、頭と下半身しかない娘の愛のない愛の形式。
 しかし、引き算と割り算から生まれる前に、彼女は様々な方法の絡み合いから派生する。その方法のひとつは数学者が<置換>と呼ぶものだ。それについてひとつの明瞭な、かつ明確な観念を持つためにはこう言うことができるだろう。肉体は文章に比較しうる。それは果てのないアナグラムを積み重ねることによってその本当の内容を再構成するために、まずバラバラにされることを求めるのだと。
(ハンス・ベルメール『イメージの解剖学』篠田知和訳)   

 欲望の熱く柔軟な子供ではなく、実用的、盲目的なけだものとしての自然。彼はそれを、構成され計算された驚異の法則に従ってさかさまに再創造する。幾何学、その厳密さではなく、その同じ厳密さの合理的、商業的用法、彼はそれに愛の不確実さを否定させる。そして愛そのもの、つまり矯正できない愛の情念ではなくて、その防衛反応、絶え間ない逃走の傾向を、この危険なうねりに対する伝統的な敵である、道具、形式、冷たい線の助けを借りて、挑発的な見せかけの「オブジェとしての事実」から、不可能性に燃え上がる愛情の解剖学的な、現実の触知しうるイメージに至るまで、再構成させようとする。彼は、この三重の矛盾によって、照応と転移の様態を確立することに成功する。それを解決するために情動の衝突を糧とする様態。生理学から心霊学、心霊学から対象そのものにまで至る、この照応の様態を解明し、完成し、発展させることこそ彼が探求するものだ。
 
 一体なぜ、ベルメールはこの作品を『人形』と名づけたのであろう。人形は時に人間の「憎悪」の感情に関わり、またある時には「愛惜」の情念と深く関わりもする。そして、人形は、人間の主体性が他者によって疎外され、自己の主体性に危機が訪れたとき、その主体性の回復が賭けられて作られるものなのである。ベルメールの主体性の危機とは何か。そしてその回復とは何を意味するのか。それは、凍りついたフォルムの頑なさと、非進展的な不安がそこにあり、それを破壊しようとすることにある。そして、新たな成功があるたびに、不可能性をより先の、より刺激的な地帯へ順送りすることが、手先の行事にまで関わる想像力に属したことであるというのは、まさに恐怖を先取りし、それをにこやかなものにするためなのだ。



 













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