私的少女論

「少女」という言葉で喚起されるもの、それはバルテュスの絵画とベルメールの人形。幸いにして私はそれらと芸術的な出会いをしたので非情に高尚なものとして受け止めている。しかし、言葉は悪いが、如何わしくも通俗なエロスを扱うような場で出会っていたとしたら、単なる猥雑な作品としか思えなかったのではないだろうか。のけぞる少女達、あたかもばらばら殺人の現場のような散乱する人形達。どちらも反社会的且つエロティック(この並列は無意味だろうか)。だが、禁忌すらも存在しない天使的な世界へと見事に逃避してのけたバルテュスやベルメールも既存の禁忌、たとえば少女嗜好やSM趣味、の影響下にある環境では本来の魅力を発揮することなく消費されていくかもしれないのだ。禁忌を破ろうとする「自由」ではなく、禁忌すら存在しない世界へ旅立つ「自由」を手にいれた彼等ですら。私は彼らの作品との鮮烈で無機的な出会いに今は感謝するばかりだ。結果として彼等の作品に私は魅了されているのだから。蛇足ではあるがナボコフの「ロリータ」は全くもって少女的ではないと思っている。処女性云々の話しではなく、少女的精神の問題。バルテュスやベルメールの少女も明らかにセクシャルな要素を孕んでいるけれど、そこに心がないのだから致仕方が無い。ならば、川端の「女であること」の性交を拒む気持から「睡眠薬での昏睡状態に恋人に身体を委ねる」事を提案する主人公の方がよほど少女めいていると言えるのではないだろうか



夢のユートピア

近親相姦は、アフリカの原始社会からヨーロッパの文明社会にいたるまで、世界中で広範に認められている厳粛な禁忌。しかし私は何故に禁忌とされているのかを理解出来ないでいる。生物的な本能的な嫌悪、なのであれば敢えて禁止しなくても発生しないのではないだろうか。近親婚の及ぼす優生学的悪影響、が原因なのだろうか。しかし、遺伝学や優生学の概念は近年広まってきたものであり、大昔の人々はその事実を知る由も無かっただろうに。近親相姦と聞いて、まず思い出すのは、スタンダールの短編「チェンチ一族」で有名なイタリア貴族「美しき親殺し」ベアトリーチェ・チェンチ、妹ルクレチアに横恋慕したチェザーレ・ボルジア、息子ロベルトに男色行為を迫ったリミニの専制君主シジスモンド・マラテスタ、詩人バイロンとその姉の妖しげな関係、夢野久作「瓶詰地獄」…枚挙に暇が無いとはこのことだ。そして、結局、私はそういった関係に、物語に、美しさを感じてしまう。血の婚礼とでも言うのか、愛故に縁の紐を強引に結び付けてしまうという、苦悩と後悔と呪詛入り混じる地獄の恋。畜生道だなんてとんでもない、人間にこそ許された究極の愛の形。勿論、一方的かつ強引な関係及び単なる肉欲だけの関係は、少しも美しくはないけれど。その閉鎖された関係は、窒息死寸前の、刹那的で、まどろみにも似た涅槃の境地へと精神を誘いかねない。そしてそれは、人類にとって抗いがたい窮極の欲望なのではないだろうか。近親相姦に関する勉強不足(或る特権階級には許されていたという史実に関しては恥ずかしながら知識すらなかった)や消化不良も否めない浅はかな私見ではあるが。最後に三島の言葉の引用を御許し願いたい「それはそうと、肉欲までに高まった兄妹愛というものに、私は昔から、もっとも甘美なものを感じつづけてきた。これはおそらく、子供の頃読んだ一千一夜譚の、第十一夜と第十二夜において語られる、あの墓穴の中で快楽を全うした兄と妹の恋人同士の話しから受けた感動が、今日なお私の心の中に消えずにいるからにちがいない」。



溺れ、沈む、意識もなく、この上なき快楽

私は、私の妄想世界に登場する愛しい人物達に、各々相応しい死を予め用意することにしている。現実世界では死は非常に尊厳を置くべき事柄であり他者の介在を受けるべきものではない。経由はどうあれ死の瞬間は穏やかにそれを受け入れることしか神は私たちに許していないのだ。安らかであろうが苦痛であろうが最後の瞬間は何人にも平等に訪れる。それは人の知る数少ない真理の一つだ。しかし妄想世界では私が神であると同時に遍く事象の快楽中枢であると言っても過言でない。だからこそ私は全ての人々に、事象に、介在し平等に死を与える。それこそが何よりの敬意であると認識している。或る者は理由はどうであれ縊り殺されるべきであり或る者は白昼灼熱のアスファルトの上で瞼を閉じなくてはならない。或る者は天寿を全うすべきであり、或る者は彼の丘で十字架を背負ったまま息絶えなくてはならない。そして、私の妄想世界に君臨する彼の人は「『支那人のように残酷に』殺される」という運命を享受しなくてはならない。平凡な死、ともすれば不敬ともとれるだろうこの表現を彼の人に与えるわけにはいかないのだ。何故ならば、彼の人こそは私自身の分身でだからだ。自己憐憫と笑ってくれても構わない。生きとし生けるものが導かれるエロスとタナトス。ユングは言う「エロスと死の本能が結局は同じものであること、あるいはエロスが死の本能に屈服すること」と。彼の人(=私自身)は退行的傾向は否定しないままエロスとタナトスの融合を望んでいるのだ。それゆえ、愛しい人に残酷に殺され息絶えることそが願望の成就であるのではないだろうか。私はそう推測する。その瞬間の心理描写は私には出来ない(あまりにも主観が邪魔をする)しかし、変わる言葉を披露することは出来る。イゾルデの歌う最後の言葉、「溺れ、沈む、意識もなく、この上なき快楽」。この言葉ほどにエロスとタナトスとを端的に表現したものは少ないのではないだろうか。これこそが我が本意と言ってもなんら問題ないだろう。苦しめまいとするしさなぞはいらない。出長い時間を与えられ快楽と苦痛とを貪って、果てるその最後の瞬間までも狂おしいほどの愛情を感じていたい。私は心からそう思っているのだ。



ロリイタ

例えば私の考える「ロリイタ」の条件とは、相反する性質を兼ね備えているということ。美徳と悪徳、善意と悪意 無垢と穢れ。優雅でいて猥雑な、慈愛に満ちていて残酷な。矛盾を孕んだ、今にも崩壊寸前といった不安定さに、私は永遠の少女性を感じる。 そして、私の理想を体現してくれるような少女が存在すれば、そんな種類の服装を身に纏っていようとも私にとっては「ロリイタ」なのだ。ファッションは自分を表現する一つの要素であっても、自分自身そのものでは決してなく、肝心なのは本人の持つ雰囲気だと私は考えている。残酷で遊堕な甘い空気。ただ、ジャンルに関わらずロリイタファッションに身を包むすべてロリイタ少女を、私は愛さずにはいられない。ともすれば現実逃避で内向的・排他的と受け止められ、批判や冷笑を浴びることもあるだろう。そういった煩わしさを受け止めて、それでも己を貫きと通す、自分自身への愛情と誇りに、私はただもう完全降伏、拍手喝采。何もかも知ってるくせに知らん振り、猫の目よりもコロコロ変わる、細くて白くて儚げな意思を持った御人形。薔薇の軍旗を翻し、いざ進まん。そんな、感じだろうか。時にはリボンを付ける時間があったら御勉強なさいな、そんな皮肉を噛み殺したりもするのだが。



普遍的読書のススメ

若い頃の私は、悪い病気に罹った様に一心不乱に読書していた。「今読まないといけない」「基本は今のうちに押さえないといけない」という偏執的な考えにとらわれ、「楽しみは後に取っておこう、乱歩や中井英夫は我慢我慢」と必死に岩波文庫(当時最もスタンダードであると考えていた)や日本文学全集を紐解いていた。何故そこまでこだわったかは今となっては知る由も無いが、基盤を作りたいという殊勝な思いだけではなく、ラディゲが19歳で「肉体の悪魔」を書いた事への憧憬などが有ったのだと思う。文学で食っていくつもりなど毛頭なく文学部に行く気すらなかったことを両親は悲しんだけれど、一生趣味で本を読んでいこうと決めたのは良い決断だった。審美眼は養えても、才能は降って沸いてくるものではないのだから。それに、若い頃の楽しみを少々無視した無謀な読書生活のため、意に反した本を読むことの辛さ(そう、まるで課題図書だ)は知っていたから。「鉄は熱いうちに打て」とは良く言ったもので、時間や根気の無くなってきた今となれば、若い頃の柔軟な頭を用いての読書が思考の糧となっている。だが惜しむらくは、当時読書を十分に楽しめていなかった為に作品自体も愛せていなかったことだ。おおらかな気持ちで読書に取り組んでいれば、嫌いだった川端康成の作品にも光を見出せたろうに。結局、「好きなものを好きなだけ」が一番良いのだろう。今更後悔したところで頭の中を白紙に戻す事は出来ない、ならば我が道を行くまで。最近は考えるようにしている。これからは今までは手が出せなかった様な本ゆっくり楽しんで読んでいきたい。死ぬ前に後悔するのは潔くない。老体には道が険しけり、我と我が身を励まさん。



SSS

睡眠が不得手。幾度も覚醒する浅い眠りは暗い海の浅瀬で溺れる様な感覚だ。私が未だ睡眠に快楽を見出せないでいるのも仕方が無いだろう。しかし、不得手とは言え嫌っているわけではない。眠らないと人間の脆弱な精神は均衡を失ってしまう。それはとても厄介なこと。夜毎の溜息の果て、私は目を閉じてオベリスクを背に負った象を想像する。象のゆっくりと歩む姿はなかなかに好ましく、白磁のオベリスクをしっかと支え様と賢明な力強くも穏やかな動作は猶のこと美しい。砂地を歩む象はやがて奇妙な人々と擦れ違ってゆく。御簾から景色を伺う貴族達。果物売り。大きな日傘の房飾りを揺らして微笑む娼婦達。旅の楽団は滑稽な衣装を抱え、鈴の音を撒き散らし行く。地図に無い幻の都。容赦ない太陽の日差しに象の足取りが重くなる頃、私もようよう眠りの淵に沈みだす。柵越えする羊を数えるよりも多少は御耽美なのではないだろうか。どうだろう。



密やかに馨る殻

生来の潔癖症の為に趣味とは相反して機能性重視の部屋に暮らす私には「部屋」を語る資格は無いのだろう。しかし触れば崩れるように繊細な硝子細工や絢爛な額縁を手に取り、夢想に耽るのは至福の時間だ。埃が怖くて躊躇してはしまうけれど。誰の頭の中にでも理想の部屋はあるのだろう。私のそれは飾り窓に身を燻らせる娼婦の部屋だ。重厚と下品の狭間で揺れるラズベリィの壁、似非アンティックの黒い家具、腐乱寸前の果物籠、フェイクの豹皮敷物、リネン類には房飾り。昔はヴィスコンティよろしくの貴族調に憧れはしたけれど、贅に頽廃あれども耽美は見つけ難いと気付いて鞍替えしたのだ。何をもって美とするか、それは人それぞれ。部屋も人それぞれ。部屋が狭いのお金がないの、不平不満は二の次三の次。貧困の中にこそ或る美だってあるのだから。煤けた屋根裏の床を踏む櫻貝の爪先、埃塗れのチェス盤、崩れかけた幾本もの白い蝋燭、質素なカァテンを結うサテンのリボンは震える螺旋。存分に美しい。美しい部屋はきっと想像よりも易く手に入る、そう考える近頃の私。希望的観測なのかもしれないが、固定観念から抜け出せたのは進歩だと自負している。



天使的、或いは苦痛を伴う夢の惨状

輝かしい光に身を焦がし羽を溶かす。上昇を続ける肉体は苦痛に晒されなおも失速を厭う。ただ眺めるだけの愚かな私の瞳にはその形相が微笑みに見える。黒く焼け焦げけ墜落する彼の遺骸をこの両腕で受け止める事が出来るのだろうか。支配するのはそんな感情ばかりで、彼を止める言葉すら浮かばない。結局は私はそういう存在でしか有り得ない。瞬きを忘れた私は乾いた瞳からただ涙を流し睫毛を濡らす。一滴ですら容赦なく吸い込む不毛の大地。罅割れた貪欲な母なるそれ。御前は彼すらも。そして目が醒めた。一人には大きすぎる寝床の中央で私は目醒めた。真っ白な天井を眺め、全てが夢だったことをまだ信じきれずに朦朧とした意識の中で記憶を擬えた。波を描くカーテンからもれる日差しが視界に入り、漸く私は全てが幻だと知った。けれど、それは、真実であるとも。夢は幻。幻が夢。けれどそこにある全ては全てが嘘まやかしでは有り得ない。私はその幻に少しばかりの真実を見た。私は彼を受け止めよう、この貧弱な両腕で。折れた腕に抱かれた彼はきっと微笑んでくれるだろう。そして二人大地に沈もう。夢見るようにに微笑んで、その貪婪な大地へ。



薔薇と蟲と千切れた羽

きっともう空を飛べない。羽が千切れてしまったようだ。いいや日々毟られてゆく漆黒の羽。やがて大きな傷痕を背中に残し私はさ迷い歩き大地に果てるのだろう。その時、薔薇が狂い咲いていれば良い。その重なり合った花弁の生み出す深く薄闇の陰影がきっと涙が零れるほどに美しくて、私は私である事を忘れて窒息して旅立てる。飛べない鳥は死ぬだけだ。ひといきれの軋轢で、車の暴走で、押し潰されて息絶える。私は今はまだ人だから辛うじて生きて呼吸をしているけれど、明日のことまではもう分からないんだ。苦しくて君の声も良く聞こえないでいるよ。救いを求める事は時に容易で効果は覿面だけれども、この折れた腕で誰に縋ろうか、この脳を蝕む、蟲蟲蟲に食い散らかされた言語能力で誰に何を語ろうか。ねえくちづけを交わそう。「口唇は体の持つ小さな傷口」なのだから。血と血が交わる瞬間に救済を求める愚行などを振り切って私はきっと墜落出来る。背面から落下する。きっとみんなの顔が見れて綺麗だよ。



愛に関する独り言

愚者や意地悪き人達が
私達の幸せを妬んだり嫉んだりするのでしょうが
私達は出来るだけ気高くあって常に寛容でありましょうね
そうしましょうね
(ヴぇルネール)
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【愛】 
対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。
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辞典に記された【愛】という言葉はただ只管に美しい。世間では【愛】という言葉が溢れ、言葉そのものが甘美かの如く人々は群がる。嗚呼!嘔吐寸前の不快感。生理的嫌悪感。それではあたかも角砂糖を黒く染める蟻の様じゃあないか。誰かの思考回路を巡り巡って疲れ果て搾り出された【愛】などに一体何を見出そうというのだろうか。残念ながら愛は恋愛論や経験論からは導き出せない。恋愛小説も恋愛映画も多少の共感と自己陶酔または不毛な憧憬を抱かせるに過ぎない。より愛される自分を作り上げる為の情報収集と言ってしまっては乱暴すぎるが。勿論皆は気付いているのだろう。ただ幻想を求め感受性を高めているのだろう。そう願う。いやそうに違いない。生まれながらに刻まれた指紋の様に愛も決して他人と同じ形をとらないことを知っている筈なのだから。
うら若き乙女達に老婆心で打ち明けよう、愛は、するものでもされるものでも、落ちるものでも、溺れるものでもなく、ただあるもの、なのです、と。誰もがいつしか巡り会う運命の人との間に当人達には気付かれないよう慎重に潜り込み息を潜める。それが愛というもの。一般論では語れない千差万別の美しい慈しみの感情がただあるようになる。
「たとえ私以外の人を求めたとしても同じ地球に生きてくれているだけでいいお願い死なないでね」恥ずかしながら私にとっての愛はこの感情だった。確認はしていないけれど今もその感情、愛、はある。結婚をし住まいを同じくする事により私達は色々なものを失いつつある。恋愛開始時から徐々に水を与えやがて咲いた花は新婚時代から既に枯れていた。夢を壊すようで申し訳無いのだけれど、大恋愛の末に結婚したと自負している私達ですらこうなのだ。
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暗い森の中のように恋の中に世を逃れ
私達の二つの心が恋の甘さ楽しさ歌い出せば
それはまるで夕暮れに歌う二羽の鶯         
(ヴぇルネール)
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ヴェルレーヌは新婚当時は【愛】に酔いしれこのような甘い言葉を並べ立てながらも、やがて妻子を見捨て詩人ランボー(男)と手と手を取っての逃避行。最低最悪。この人は個人的に嫌いで例に挙げたまでのことで比較するのもなんですが、燃え上がる恋の炎的なものはやがて鎮火してゆくもの。台風の瞬間最大風速と同じようなもの。無論の事、恋人気分を維持しようと努力する夫婦はいるにはいるが、客観的には正直キモチ悪い。家庭内でお肉VSお肉みたいな状態は苦手というか不自然に思えてしまう。私だけですか?そうですか。四六時中完璧ではいられない。自尊心や羞恥心など恋愛には必要不可欠なものは日々磨耗してゆく。目を合わせない時間もあれば、言葉を交わさない時間もある。互いに無関心でいる事も多い、というか殆ど。けれど、ただあるだけでしかない愛は、それ故にたとえ全てを失ったとしてもちゃんとある、残っていてくれる。自分が愛と名付けた感情を素美しいものと受け止め、その感情を与えてくれた相手に感謝して、そして時々でも二人でその美しいものをこっそりと披露し合って見詰め合うことを止めなければ、ちゃんとある。そういうものだ。そういうものだと思いたいものだ。最も身近にあり最も手が届きそうな幻想でもあるわけなのだから。手垢に塗れた言葉に惑わされたり踊らされること無く、自分が気付いた美しい感情を自分自身の言葉で表現し愛と名付けて、一人ひっそり眺めるもよし、二人で感動しあうもよし。友に打ち明け御互いをより深く知るきっかけを作るもよし。ただまあ不特定多数には曝け出さないほうが良いかもしれないがなと今思いましたよ別にいいんですけどね。心を動かすのは心でしかない。仮初の言葉でも性急な行動でも雑多な感情でもなんでもない。心しかない。そして心は自分が思っているほどに多弁でも勇敢でも強固でもない。優しく優しく取り扱ってあげて欲しい。それは自分の為だけでなく自分の愛する人の為にも。傷付いて打ちひしがれる女の子を見るのは悲しいからね。頑張って!とここからエールを送ります。物凄く自分勝手な考えばかり書きました。なんかスミマセン。



































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